我輩は猫である

書斎の本棚(小)。

「我輩は猫である」夏目漱石 新潮文庫 昭和60年8月30日 47刷

カバ欠につき、値段は不明。たしか、新刊で買ったと思う。
買ったのは高校生のころだと思うが、初読は小学校6年生のはずである。
いや~、初読のときから、「猫」は面白かった。私は、笑い転げながら読んだのだ。どこで笑ったかというと、「ほぼ全編にわたって」である。
私は今でも、「漱石は、落語の台本を書くべきであった」と思っているのだ。べしゃりに乗るリズムを、「猫」は持っている。

私は、本作に登場する迷亭せんせいという奇人が好きでたまらない。この人は、見て来たような顔して、とんでもない大法螺をふくのである。それが、いくらでもエスカレートしていくのである。
私は、かなり大人になってから気がついたのだが、迷亭せんせいなる人は、サキの小説に登場する「クローヴィス」という御仁によく似ている。クローヴィスも、果てしなくほらを吹いていく人なのだが、話のエスカレートっぷりに、なにやら相通ずるものがあるのである。そして、私はクローヴィスのほら話も、好きで好きでたまらないのである。(もしも友達だったら、「イカロスの墜落の話を、もう一回して!」とか頼むだろう)

本来、「猫」は批評精神を楽しむべきものなのだろうと思う。
「猫形式」の文学というのは、ほかにもあって、たとえば井上ひさしの「ドン松五郎」は犬の視点から人間を見ての風刺であるし、北杜夫の「高みの見物」などは、ゴキブリ目線の風刺である。私には、「ドン」も「高みの」も、それぞれに人間世界をぶった切ってくれて面白かった。
しかし、小六の子供が机たたいて笑うのは、なんといっても「猫」だろう。
こどもが読んでも子供なりに面白いところが、「猫」はすばらしい。私からすると、この事実が「猫」と落語の共通点なのである。私は5歳くらいから落語ファンだが、世間を知らなくたって、人生の機微を知らなくたって、落語はそれなりに理解できるし面白いのである。

こういうのは、おそらく「正当な漱石の評価」とは言えないのだろう。しかし、私は「猫」を読んでいる間だけは、漱石の文学性も洞察力も、なんも関係ないわい、面白いんだからそれでいいだろう!と思うのである。

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